信長は、斎藤道三が整備したこの城を攻略した後に、この城を拠点として京都を目指している。信長は非常に遠い将来まで考えていたようで、天下布武の印も岐阜に拠点を構えた直後から使用し始めている。そうその前に、地名を岐阜と改めていたのだった。
商(殷)を武力で打倒した周は、岐山を故地としている。阜は小高い丘の意味があり、岐阜は日本版の岐山という意味が込められている。信長はまさに岐阜を出発点として、日本の中原である京都を目指したわけだ。
岐阜は、白山山地*1を太祖山としていると推測される。父母山は、今淵ヶ岳あたりだろう。恵那山、焼山を青龍に、貝月山、伊吹山を白虎に持っていて、京都よりもスケールが大きい。
ただ当時の軍事的な制約から、岐阜城は星である金華山の上に建てられている。また水は、流れの速い川しかなく弱いと考えられる。当時の信長に課せられていた制約条件*2からすると、風水的にもベストないしベストに近い選択だったと思う。