韓非子十過

ここまで音律について書いてきたように、調和する音は宇宙の調和と対応しているわけで、そういうこともあってか、儒学の祖である孔子は音楽を重要視してきた。そして儒家徳治主義の立場を取るわけだが、それでは苛烈な戦国時代*1を生き残ることは出来ず、法治主義を唱える法家が台頭してくる。

始皇帝を生み出すことになる秦はいち早く法家の主張を取り入れ、その強さを磐石のものとして中国全土の統一に乗り出して行く。その頃に、戦国七雄の中で最弱だった韓の王族として生まれたのが韓非で、法律システムとその運用について説いた『韓非子』の著者である。韓非子の中に『十過』と題された章がある。この章では、国を滅ぼしかねない10種の過ちについて解説されている。その中の4番目が、

四曰、不務聴治而好五音不已、則窮身之事也。

の節である。政治を疎かにして音楽にふけっているようでは、自ら苦境に陥ることになると、音楽にふけることを戒めている節だ。これは音楽を重要視した儒家への皮肉でもあるのだろう。納音とかについて考えていたら、この話を思い出したのでダラダラ書いてみることにする。

さて、この節は故事をひいて音楽にふけることを戒めているだが、その故事は少々登場人物が多い。列挙していくと、

  • 衛の王様である霊公
  • 衛の霊公お抱えの楽師である師涓
  • 晋の王様である平公
  • 晋の平公お抱えの楽師である師曠
  • 紂王(既に故人)
  • 紂王お抱えの楽師である師延(既に故人)

と、故人となっている人間を含めて主要な6名が登場する。しかも登場する3名の楽師は全て師○という名前なので、ちょっとややこしい。で、どんな話かというと、

衛の霊公が晋の平公と会談するために晋へ出かけるのだが、途中、濮水のほとりで野営した時に不思議な曲を聞く事になる。その曲が聞こえるのは霊公と楽人の師涓だけなのだが、曲が気に入った霊公は師涓に命じて曲をコピーさせる。師涓は2晩かかってコピーする。

衛の霊公は晋で平公との会談が終わった後の宴の席で、師涓にコピーさせた曲を披露するのだが、平公お抱えの楽師である師曠が曲の途中で演奏をとめさせる。師曠が言うには、

その昔、暴虐で有名な紂王が、師延に命じて淫らな曲を作らせました。周の武王が紂王を征伐したとき師延は逃亡して濮水まできたけれども、結局は濮水に身を投げて死んでしまいました。それ以来、濮水のほとりでは師延の作った曲が聞こえることがあります。しかしその曲は亡国の曲なので最後まで聞くと領地を削られることになります。

ということだった。ちょっと前にネットで『一番使い所のない四字熟語』として話題になった『桑間濮上』はこの故事から生まれたもので、桑間濮上が指す亡国の曲とは、この紂王が師延に作らせた曲というわけだ。

しかし平公は聞かずに最後まで演奏させた後に、師曠から曲が『静商』の調べであることを聞いて、

静商が一番もの悲しい調べなのだろうか。

と聞く。もの悲しい調べというこなので『静商』は短調の曲だったのだろう。師曠が、

静徴には及びません。

と答えると、王様は『静徴』を聞くには徳が足りないと拒否する師曠に命じて静徴の曲を演奏させる。すると16羽の黒い鶴が現れて曲に合わせて踊ったり鳴いたりした*2。そして平公は『静徴』よりも『静角』の方がもっともの悲しいと聞いて、どうしても静角を聞いてみたくなり、黄帝が様々な霊的防御の上で作ったという静角の曲を無理やりに師曠に演奏させる。

すると暴風雨がやってきて、宴の席は目茶苦茶になった上に、晋にはその後日照りが3年続き、平公も健康を損ねたという。

この故事をあげた上で韓非は、

政治を疎かにして音楽にふけっているようでは、自ら苦境に陥ることになる。

と結論している。

*1:中国の春秋戦国時代の戦国時代で、多分、日本の室町と安土桃山の間の戦国時代よりも苛烈だったろう。

*2:この黒い鶴が現れて曲に合わせて踊ったり鳴いたりするシーンは幻想的で私の記憶に強く残った。