雁屋哲における父性嫌悪と権威主義

この前の文フリで頒布された『G-W-G 09』に掲載された位田先生の『雁屋哲と「暴力」をめぐる「スカトロピア」の「美味しんぼ」』には啓発される所が多々あった。「モノを喰うということは、喰ったどんなモノでもウンコに変えてしまうという暴力である*1」と雁屋が考えている以上、『美味しんぼ』もまた、『男組』や『野望の王国』と同じく『暴力』をモチーフとした作品であるという論の起点は私には無かったもので、非常に興味深いものだった。
全ての強制力を持つパワーは『暴力』に還元することができる。そのため国家は建前に留まったとしても、警察や軍隊といった暴力装置を独占しなければならない。暴力を民間に開放するなど以ての外だ。こういったことを明文化して世界ではどうかは分からないが、少なくとも東アジアでいち早く法治を説いたのは韓非だろう。
ところで雁屋哲だが父親となった今はどうか分からないけれども、かっての雁屋哲が父性というものを嫌悪していたのは間違いないだろう。でなければ『男組』で、流父子の名前が『統太郎』と『全次郎』という、どう見ても兄弟としか思えないネーミングになっていたり、敵役の神竜剛二の実父である『影の総理』に強烈で理不尽な父性を発揮させたりはしないだろう。『美味しんぼ』の初期においても山岡の父である海原雄山は、敵役として父性を発揮していた。
一方で雁屋哲は権威主義的な側面も持ち合わせている。『美味しんぼ』で山岡士郎は、美食の権威である父、海原雄山を乗り越えるべく悪戦苦闘する*2。それは何故か?位田先生は「それは山岡自身が権威になろうとしているかだ」と分析する。
多くの場合、父性と権威は結びついている。位田先生の論考を読むうちに、父性を嫌悪しながら権威を求めるというのは一見矛盾しているのではないか?という疑問がわいてきた。そこで位田先生の論考を読み返して行くうちに、父性も権威も暴力の一形態であるということが理解できてきた。
権威は暴力と切り離されているように見えることがある。例えば上皇陛下だ。しかし上皇陛下の権威は、法律と法律を執行する暴力装置によって裏うちされている。これは『黒鍵』における『D機構』の総裁の描き方と同じだろう。『D機構』の総裁のモデルは明らかに昭和天皇であり、園遊会で復讐者である主人公のジョルジュ・ダンテと相対した総裁は、穏やかな物腰で丁寧な対応をしている。しかし配下のD機構は暴力装置でもあり暴力でジョルジュ・ダンテを排除する。
つまり雁屋哲は父性も権威も暴力の一形態であり、かつ異なる形態であるとして、雁屋哲の中で折り合いを付けているのではないだろうか。