技術(アート)と宗教

まあどう考えたって

技術(アート)の始まりに宗教があったのは間違いないだろう。音楽は神を讃えるために始まっただろうし、絵画は縁起を伝えるために始まっただろうし、詩文も神を讃えるために始まっただろう。演劇の始まりは御神楽みたいなものだっただろうし、もっと遡れば神が降りたシャーマンの動作を真似るところから始まったかもしれない。占いだって神や祖霊の意志を知りたいところから始まっただろう。

要するに技術(アート)は神に仕えるものだった。もっとも古人だって生きていた当時は現代人だったわけで、神に使え神を祀り神の意志に従うことが自分の欲望を満たす近道だったということはあるだろう。そういう点では技術(アート)は当初から欲望に仕えるものだったと言って良いと思う。

そして技術(アート)がそれ自身として確立されてしまうと、元々仕えていた宗教からは開放されることになった。なので、元々仕えていた宗教とは別の宗教を持ってきても、宗教を捨て去ってしまっても全く問題ない。インド占星術がヒンディーのものだとか、古典の西洋占星術キリスト教を背景としているのだとか言ったところで、星空から様々な事柄を読み取ろうとすることには変わりがない。

風水はこの辺り典型的で、当初は道教のものだったと思う。しかし儒教は葬祭儀礼をコアとした宗教なので儒教が取り込んでしまうことは簡単だった。なので『人子須知』は儒者の兄弟によって書かれた。三浦國雄先生は『人子須知』を底本にして巒頭の部分を解説した『風水講義』を書かれた。そして私が学んだ妙派の風水は妙空禅師が開祖とされている。妙空禅師は中国では結構有名な清末の学僧で、太平天国の乱による大蔵経の印板の消失を嘆き復刻に邁進して自ら刻経僧と名乗ったという。つまり風水には儒仏道、三教の風水があるわけだ。

仏教といえば、中国天台宗の蕅益智旭は『周易禅解』という天台宗の教義から解釈した易経の伝を書いている。マテオ・リッチとか気が向いたら“Christian I-Ching”くらい書いたかもしれない。

ということで、変な思想的背景にコダワるくらいなら、徹底して技法を追求した方が良いと思うわけですよ。多分思想なんて、技法を追求した先にしか意味がない。