英邁であること

英邁だった後鳥羽院

山田雄司先生の『怨霊とは何か』を読んだ。非常に興味深かった。もっとも異論がないわけではない。例えば本書では長屋王を怨霊であったとしているけれども、長屋王を追い落した藤原四兄弟が全員病死したのは天平天然痘の流行によるもので、この天然痘によって日本全国では100万–150万人が死亡している。これは当時の日本の総人口の25–35%にあたるそうだ*1
これは長屋王の怨霊*2によるものというよりは天譴と捉えられたのではないだろうか。天は天変地異や疫病の流行を使って為政者に対して警告する、これが天譴だ。ついでに言っておくけど民草の苦しみは民草への警告ではなく、天が地上に遣わした為政者*3への警告だということだ。そうつまり天変地異や疫病による民衆の苦しみは民衆への警告では無く、民衆への警告だと言っているアンタ達への警告なんだよ。閑話休題、なお藤原四兄弟の死後、長屋王に対して位の追贈とかなかったみたいなのも長屋王が祟ったわけではないことの傍証にはなるだろう。

本書で非常に興味深かったのが、崇徳院の怨霊化のプロセスを追った下りで、有名な五部大乗経の書写にまつわる話には全く実体が無さそうということだった。実は承久の乱で敗者となった後鳥羽院は生前から生霊化していたという話があり、その怨霊を語るプロセスで崇徳院もまた大魔道として怨霊化していったのだそうだ。何故そうなるかというと、崇徳院の絡んだ保元の乱によって武家が台頭し、承久の乱によって武家支配が完成したという歴史的経緯があり、武家に敗北した後鳥羽院が怨霊なら、武家の台頭の原因となった崇徳院はもっと凄い怨霊のはず、ということになったようだ。

後鳥羽院歌人として優れていただけではなくて、隠岐に流された後も「御番鍛冶」とよばれる各地から呼び寄せた名工を助手に作刀に打ち込まれたそうで『菊御作』が幾つか残っていて国宝に指定されたものもあるそうだ。そして豪胆な御人柄であったようで、自ら捕手を指揮して交野八郎という大盗賊を召し捕ったこともあるそうだ。英邁であったのだろう、しかし些か英邁に過ぎたし、歌人を除けば天皇という御位には必要なかった英邁さではなかったのではないだろうか。多分、御稜威を危うくするのは愚妹さ*4ではなくて、こういう英邁さではないだろうか。

しかし考えてみると国家を対象として発生する天譴が、日本では怨霊という個人の無念による災厄という形に変換されたようにも思う。これは矮小化かもしれないけれども、個人化したことでより内面化したとも言える。何か日本らしい感じだ。

*1:天平の疫病大流行-Wikipediaによる。

*2:『怨霊』という概念がこの当時確立していたとしてだけど。

*3:天の子たる天子。

*4:愛犬に軍の大将位を授けるようなどこぞの王様みたいな、ね。