民間陰陽師の研究

確実に向き合うことになるもの

昔々、小学館から季刊で『使者』という雑誌が出ていた。私が手に取ったのは、その2号になる1979年夏号だった。『「聖」と「賤」の日本文化史』が特集で組まれていた。いわゆる『被差別部落』の問題は江戸幕府が採用した身分制で被差別部落が出来上がったみたいな単純なものではなくて非常に根深く、被差別部落のルーツは平安時代には出現していたこと、スタートした時点では聖別であったものが差別に転換していったことなどが解説されていた。安寿と厨子王の話のオリジンは説教節の『山荘太夫』であり、背景には被差別部落の問題があって説教節の伝承自体、被差別部落を抜きには語れないことが判った。

この特集では陰陽師を、漂泊する芸能民集団の知的なコアとして位置付けていた。そして漂泊する芸能民集団は差別されながらも土地に縛られない自由な民であるとされている。そして民衆が自由であることを望まない統治者達、当時としては戦国大名は、漂泊する芸能民達が持っていた他国の情報源として価値が薄れてきた段階で統制に乗り出したとしている。秀吉による陰陽師狩は漂泊する芸能民集団の定住・統制の一例としてあげられていた。編集同人の筆頭が野間宏だったので、こういう網野史観というかカムイ伝史観が入っているのは仕方がないだろう。

この特集の中に、青山恭子さんによる安倍晴明物語の見せ場の一つの『葛葉子別れ』の分析があって、漂泊する陰陽師の悲劇が背景にあるのでは、とされていた*1

そしてそこから40年近くたって、やっとこの方面の知識をアップデートすることができた。
吉川弘文館から刊行された、梅田千尋著『近世陰陽道組織の研究』を読むと、使者の特集には野間色が付き過ぎていることが判る。もっともそうは言っても、土御門配下の摂津歴代組の活動拠点であった鳥飼野地区は現代でも被差別部落であるし、『近世陰陽道組織の研究』で取り上げられている、山城国綴喜郡にあった陰陽師村、つまり算所の北高木村*2は、普賢寺川上流の天王社の祭事において特別の役割があったし他村との通婚を忌んだとされている。

このように近世の民間陰陽師をまともに研究しようとしたら、被差別部落の問題を避けて通ることはできないだろう。

追記(03月26日)

山城国綴喜郡にあった陰陽師村、つまり算所の北高木村』について『普賢寺川上流の天王社の祭事において特別の役割があったし他村との通婚を忌んだとされている』ことから、かって被差別部落であったのだろうと推測したけれども、梅田先生( id:simonblue)から、

身分のグレーゾーンが限りなく存在した江戸時代畿内の村で、差別/被差別、平人/賤民という一本の線を引いてしまうことが妥当なのか。 このあたり、もはや30年近く「身分的周縁論」として研究が進んできた分野です。「避けて通る」おつもりは無いとのことですので、機会がありましたら、「シリーズ 近世の身分的周縁」などご参照下さい。

との指摘を頂戴した。梅田先生が著書で触れられていた江戸時代では、その曖昧な身分制から北高木村が現代でいう被差別部落であったという、私の推測は全く正しくないことが理解できた。
私の身分制度についての知識は、30年以上の研究の蓄積があったことも知らずに、全くアップデートできてなかったわけだ*3。反省した。

*1:興味深く読ませてもらったけど、陰陽師を指す『ハカセ』の出典に柳田国男の『小さき者の声』があげられていて、『小さき者の声』を繰り返し読んで『ハカセ』を見つけられなかったことには些かの恨みがある。

*2:現代の京都府京田野辺市の同志社近辺?

*3:野間宏カムイ伝史観を指摘しながらも、自分もカムイ伝史観から抜け出せてなかったわけだ。