筮前の審事、筮後の審事

加藤大岳は昭和の易聖とよばれていて、明治の呑象翁から数えると、大雑把に100年に一人の天才といえるだろう。

では、加藤大岳のどこが易聖と言われるまでに凄かったかというと、多分、正しい卦を得る能力でも、卦を解釈する能力でもなかったと思う。加藤大岳が凄かったのは筮前の審事においてだったのではないだろうか。

加藤大岳以降、筮前の審事、つまり卦を得る前の段階で問いを突き詰め、正しく問うことの重要性がうるさく言われるようなった。しかしながら、この正しく問うて卦を立てることがちゃんとできてたのは加藤大岳くらいしかいなかったのではないだろうか。というか天才、加藤大岳をしてやっと筮前の審事を尽くすことができたのではないだろうか。

例をあげてみよう。大熊茅楊先生の占例だ。梅雨の最中、大熊先生が明日の天候を占って習坎を得、明日も雨と判断されたのだそうだ。ところが実際には、次の日はカンカンに晴れたそうで、大熊先生は溜まっていた洗濯物を片付けるべく洗濯機を回していたのだが、洗濯機の中の水流を見て、『これが習坎だったのか』と納得されたのだそうだ。つまり、大熊先生の本当の問いは「明日晴れるか?」ではなくて「明日は洗濯できるか?」だったということだ。加藤大岳直弟子の大熊先生にして、こういう誤占がある。

なので、私のような凡人では加藤大岳のようには筮前の審事を尽くすことができないのだ、ということを折り込んだ上での筮前の審事ということになる。そして得た卦を見てクライアントと話をして筮前の審事を再検討する、という筮後の審事が重要になる。

加藤大岳を虎に例えるなら、虎を描いたところで猫になるのは仕方がない。それでも凡人が猫であっても形をなすことがでたとしたら、やはり喜ぶべきだろう。多くは形をなすことすらできないのだから。