『算命』の人には、あまり善い思い出がない

その昔、パソコン通信NIFTY-Serveが一人勝ちしていた頃、占いフォーラム(FFORTUNE)や、そこから分岐した占いフォーラム東洋館(FFORTE)では、様々な議論が交わされていて物凄く勉強になった。ただまぁ、たまに困ったちゃんがやって来ることもあった。代表的なのが菅原光雲御宗家で、御宗家関係についてはこの辺りを読んでもらえると善いかな、と思う。

で、他の困ったちゃんで代表的なのが、四柱推命は変だ算命こそ正しいという持論を開陳する人達だった。例を挙げよう。こんな主張だ。

 「年の干支」は太陽の回りを地球が一回りして1年、つまり干支は一つ進みますよね?「月の干支」は地球の回りを月が一回りして1月、つまりこれも干支は一つ先に進みますよね?そして地球が一回自転してこれが一日、これで「日の干支」もまた一つ先に進みますよね?
 ここまではいいとして、問題は「時間の干支」についてだけは一体何が2時間単位でひと回りして次の干支に進むのか私にはさっぱりわからないんです。ですから、「年干支・月干支・日干支」の三柱に対して「時干支」だけが異質で、これも交えて四柱で占うのってちょっとコンセプトに無理があるんじゃないかって気がするのですが、実際のところ皆さんはどのようにお考えになっていらっしゃるのでしょうか?

ハッキリ言って、1年という地球の1公転の時間を12分割して月となっているように、1日という地球の1自転を12分割して時とする、何が不思議なのですか?と聞き返したくなるような話だ。

他にも、非常に不思議なことも言っていた。

「窮通宝鑑」も「三命通会」も算命学と同じく中国北部で研究されていたものだと聞いています。

これについては、別のフォーラムメンバーから具体的に疑問が出された。

さて、何も知らないこのうすらバカに、一つ教えちゃもらえませんか?
たとえば「窮通宝鑑」が中国北部で研究されていたというのは一体全体、何処の何方がおっしゃっているのでしょうか?
「窮通宝鑑」といえば、余春台原編のあの書のことだと思うんですが、余春台は楚南の人で、楚南て中国北部でしたっけ?。

これに対してマトモな回答はなかった。

他にも、中国では八字(パーツー)とも呼ばれて、生年月日時を使用しているのが分かりきっているにも係わらず、時柱を使うのは奇怪しいと主張する日本の所謂『算命』について、

中国の自然哲学の集大成ともいえる算命学が完全な形で日本に入って来た

こういう主張をする。自分で変と思わないのだろうか。

こういうことがあったので、私は『算命』についてあまり善い印象は持ってない。

ついでにいえば、『算命』の創始者である故高尾義政に『算命』を伝えたという『呉仁和』の存在についても、私は非常に疑問に思っている。『呉仁和』は大陸の人で文化大革命の直前に日本に亡命してきたことになっているけれども、文化大革命の直前に大陸の、しかも政権に近かっただろう人間が、大陸を脱出して日本に来たらCIAが黙ってないと思うのだがどうだろう?すぐ米国に連れていかれて徹底した事情聴取を受けた後に別の名前で別の暮らしをすることになるんじゃないの?

後、呉仁和は日本に亡命してきた後に長崎の道観にいたことになっているけれども、長崎に道観があったのは江戸時代の話で、昭和の時代には既に無かったんじゃないの?