雁屋哲作品における両親の希薄さ

死んだ母と兄弟のような父

雁屋哲というと今は『美味しんぼ』なんだけど、私に一番馴染みのあった時代の雁屋哲というと、昔々に書いたように『男組』『野望の王国』『黒の鍵』といった暴力抜きでは語れないような作品が多くを占めていた。私はこういった作品を読みながら、一つ感じたことがあった。

それは主人公側の両親の存在の希薄さだ。例えば『男組』の主人公の名前は『流全次郎』なんだけど、その父親は『流統太郎』というのだ。普通に見れば、親子というよりも兄弟の名前だと思う。そして『流全次郎』の母親は写真でしか登場しない。同じように他の作品でも、主人公の両親、特に母親はとっくに死んでいることが多い。そして父親は父親というよりは同志であり兄弟分のような描かれかたをすることが多かった。

野望の王国』など、そもそも父親不在が発端であり、主人公『橘征五郎』とその兄『征二郎』の対立と和解を軸に話が展開して行く。

一方、強烈な父性を発揮しているのは多くは敵方で、『男組』の敵方である『神龍剛司』の背後にいるラスボスの『影の総理』は、圧倒的な理不尽さで『神龍剛司』を支配する父親として現れる。

美味しんぼ』においても主人公『士郎』の父である『海原雄山』は、出現当初は明確に敵方であって、理不尽な父親として強烈な存在感を放っていた。そして母親は既に死亡していた。

こういった両親の現れ方が全くの創作ならそれはそれでよいのだが、何らかの事実の反映ということになれば、雁屋哲の育った家庭環境は相当に複雑なものではなかったかと推測させる。

さて、海原雄山だが美味しんぼが巻を重ねるにつれて、子を導くグルとしての父親に変質して行った。そして士郎も父親になった。士郎を父親にするにあたって、士郎の妻であるゆう子の妊娠期間が異常に長かったのも、雁屋哲になにか逡巡させるものがあったのかもしれない。ただまあ、孫は好いものらしく海原雄山と士郎は和解してしまった。

もし雁屋哲作品における両親の希薄さが実際の家庭環境の反映なら、この和解も現実の反映なのかもしれない。