山川道沢の四神相応の起源

山川道沢の四神相応について出所がはっきりしているのは、前の日記のエントリで書いた『吾妻鏡』の記事で、そこでは鎌倉幕府の御所の移転先を巡って、珍誉法師と朝廷派遣の陰陽師達との間で論争があり、珍誉法師の意見が通って御所は若宮大路に移転することになる。この時、珍誉法師が論拠としたのが山川道沢の四神相応だった。珍誉法師はこう述べている。

若宮大路者、可謂四神相応勝地也。西者大道南行、東有河、北有鶴岳、南湛海水、可准池沼云々。
若宮大路は四神相応の勝地というべきである。西は大道が南行し、東に河有り、北に鶴岳有り、南に海水を湛えており、池沼に准ずべきである云々。

このエントリを書いた時点では、山川道沢の四神相応についての情報が不足していたので、中国でも四神相応に変化があって山川道沢の四神相応も一時的に採用されていたのだろうと推測していたのだが、意外なところから山川道沢の四神相応がかなり古くまで遡れることがしめされた。

切っ掛けは松永英明氏はてなブックマークだったのだが、唐から五代にかけての「敦煌写本」にあった『諸雑推五姓陰陽等宅図経』に山川道沢の四神相応が記述されていることがわかった。ブックマークされていた、水野杏紀著の四神相応と植物−『営造宅経』と『作庭記』を中心として−が収録された、“人間社会学研究集録*1. 2007, 3”の166頁には以下のようにある。

『皇帝宅経』に云ふ、皇帝 地曹に問ふ、「凡そ人の居宅は何をか大吉となし、子孫 富貴ならん。何をか凶となし、禍殃止まず累を重ねん」と。(地曹答へて曰く、)左に青龍あり、右に白虎あり、前に朱雀あり、後に玄武あり。
皇帝 地曹に問ふ、「何をか青龍 白虎 朱雀 玄武と為さん」と。
地曹答へて曰く、「左に南流する水有るを青龍と為す。右に南行する大道有るを白虎と為す。前に.池有るを朱雀と為す。後に丘陵有るを玄武と為す」と。

明らかに山川道沢の四神相応だ。ところでこの『諸雑推五姓陰陽等宅図経』の著者なのだが、「朝散大夫太常卿博士呂才」つまり呂才である。呂才といえば、おそらくは『呂才滅蛮経』の呂才だろう。面白いところで名前を見たものだ。

『諸雑推五姓陰陽等宅図経』が敦煌写本にあるということは、平安時代には日本に入って来ていた可能性が高い。しかし吾妻鏡で珍誉と朝廷派遣の陰陽師に論争があったということは、陰陽寮において山川道沢の四神相応が主流ではなかったことを意味している。山川道沢の四神相応は、大工や造園関係者の間で伝承されてきたものなのかもしれない。

ついでに言っておくと、山川道沢の四神相応における白虎である大道は南北に通じているもので、東西の道は白虎にはならない。従って東西に通じる山陽道を白虎として姫路を四神相応とするなどは、山川道沢の四神相応においても妄説というべきだろう。