老子―中国古典選 (朝日選書―中国古典選 (1009)) |
荘子 内篇 (講談社学術文庫) |
id:consigliereさんが7月17日の本棚メモのエントリで、福永光司著の『老子』と『荘子内編』を推薦していた*1ので読んでみた。『老子』と『荘子』のちゃんとした解説書を読むのは、恥ずかしながらこれが初めてだ。
やっぱり読んで良かった。老荘の学と言いながらも、それぞれに特徴があり、また法家による道家思想の取り込みの指摘も非常に興味深かった。
上掲書とは直接関係ないけれども、儒家である荀子の弟子であった韓非が法家の思想を採用し、その著書『韓非子』で荘子を引用しつつ儒家の徳治主義を批判するという構図があり、一方で荀子学派は易を易経として儒家の経典化することで形而上学を儒家の思想に取り込んでいるという構図もあり、戦国末期のある種混沌とした思想会の状況を想像するとすごく面白い。
ところで、老子の思想の多くが『現実的な生』を対象として処世の智恵を語っているとの指摘が『荘子内編』巻末の解説でなされている。他方、荘子の思想は『絶対的な生』を主題として、解脱の智恵を語っているとされる。その処世の智恵故、世俗において老子は時代とともに偶像化され太上老君へと変化して行くが、荘子はそういった偶像化を撥ねつける厳しくまた奔放な思想ではないかというのが、著者である福永光司が両者を比較しての感想だ。
もっとも道教が国教化された唐において、荘子に『南華真人』の称号を贈られ*2、著書である『荘子』は『南華真経』とよばれるようになる。この『南華真人』とか『南華真経』の文字を見たとき、思わず吹き出しそうになった。張さん、またやったね、と。
透派十三世の張耀文公は、後に『南華密教』をとなえ西遊記をその経典の一つとし「ちゃんと修行とかしないと道教徒」にしてやられるぞと、『南華密教』に基づく西遊記の解説書で警告していたが、張さんが荘子に贈られた『南華真人』の号を知らなかったはずはない。多分、『南華密教』の呼称は張さん流の諧謔なのだろう。