伏吟課というもの

前回のエントリ玄珠さんからコメントをもらった。

立課に関して誤りがあった場合、誤ったままの課で判断した方がよいような気が経験上しています。













































































記憶を頼りに復元してみた『間違って得た課式』は右のようなものだったと思う。あの日の昼頃に何か占ったのだろう。課式を見てその時の記憶が出てこなかったので、すごく下らないことを占ったんじゃないだろうか。

電話をもらったときに第一課、発用とも禄徳だったので、伏吟課とはいえ何かあるにしても時間の余裕はまだあるはずと考えたのだと思う。しかし伏吟課の特性についてちょっと考え直してみれば、あまりに安易な判断だったと思う。少なくとも近代六壬の伏吟課においては、初伝と末伝が同じにならないように三伝が構成されていることは、六壬者なら誰でも知っていることだろう。

つまり伏吟課を得た時は、一端事が起こってしまうと元に戻らない。ましてや件の課式は玄胎格であって、極端な変化をあらわしてもいるわけだ。しかも第一課、発用の天将は勾陳であり、助からないと見るべきだった。ただ禄徳を得ているので、あまり苦しまずにすむだろう、ということになる。

なのでちゃんと考えれば、正しい時刻での課式でも、間違って得た課式でも、同じような判断になっただろう。ただ私としては、正しい時刻で得た課式でもって判断するべきだろうと考えている。この辺りについては、六壬バカの私と易の実占家としても一流の玄珠さんとの感覚の違いがありそうに思う。