紫微斗数について考えてみた

紫微斗数(しび−とすう)*1は、根本的なところで疑問が残っている。つまり紫微斗数では太陰太陽暦を使って占っているわけだが、この太陰太陽暦は非常に地域性が強いという特徴がある。つまり朔の時刻を含む日を一日(ついたち)にするため、場所毎に日付の異なる暦が出来上がってしまう可能性がある。

有名な例では、皇后陛下が御生まれになった1934年10月20日に関わる暦では、20日の直前の朔が日本標準時では9日の午前0時を回っているが、中国の中原標準時ではまだ8日の間にあって、日本と中国で異なる暦ができてしまうことになる。十三世透派掌門人であった張耀文公は、両方の暦で皇后陛下の命盤を作成した結果、中国の暦の方が適合性が高いと結論付けている。

しかし太陰太陽暦を使用する占術であるなら、出生地で作成した暦を使用することが自然であるはずなのに、何故、中国の暦の方が適合性が高いかについての考察はなかったといって良いだろう。まあ、中国生まれの占術だから中国の暦の適合性が高いのだ、という説明がなされてきたが、ちょっと考えてみると頭の中が疑問符だらけになってしまう説明だ。

さて、この暦の違いを指摘した張耀文公の透派では、紫薇斗数*2の月について節月を使用するという独自の説を採用しているが、この方法について私は何かこう不徹底な印象を持ってきた。つまり節月を採用するくらいなら暦の日付も別の何かこうももっと良い何かがあるのではないかと感じていたわけだ。

太陰太陽暦の日付は、月相とほぼ対応しているが、完全に対応しているわけではない。じゃあ太陰太陽暦の日付ではなく、完全に月相と対応する指標は何かといえば、太陽と月の間の角度ということになる。インドのパンチャーンガやチベットの暦では、太陽と月の間の角度を12度刻みで計算し、各々の角度となる時刻を含む日の日付に対応させている。その結果、1日の中に2つの日付が入ったり、次の夜明けが来ても日付が変らない状況が発生することがある。

さて紫微斗数において、太陰太陽暦の日付に換えて、生まれた時刻における太陽と月の間の角度から計算される指標を使用することにすれば、太陰太陽暦の持つ強い地域性の問題から逃れられるのではないかという期待を持つことができる。この指標は月−太陽間の角度を12度で割った商で与えられる。

そこで皇后陛下の出生日時において太陽と月の位置を計算してみた。皇后陛下は辰刻の生まれなので、午前7時と9時の両方を計算してみた。計算には、Swiss Ephemerisを使用した。

時刻(JST) 太陽 角度 指標
1934/10/20 07:00 20 pi 11'31.2580 25 li 49'46.9479 144.36 12.03
1934/10/20 09:00 21 pi 23' 4.9755 25 li 54'45.0721 145.47 12.12

辰刻内では指標の整数部分に変化はなく12となっている。この指標は日付と異なり0から始まるので、日付に対応させるなら13日となる。これは張耀文公が皇后陛下の命盤作成で使用した中国農暦の日付と同じだ。

ひょっとするとこの指標を使用することで、これまで紫微斗数は全く当らないことがあるとされてきた部分を拾って行く事ができるかもしれない。

*1:これを“しびと”という連中はしればいいのに、己の無知さをね。

*2:この派はこういう表記を採用している。