奇門遁甲の古典には大抵『遁甲総序』が巻頭にあって、奇門遁甲の創始伝説を伝えている。太白陰経の遁甲総序は割と独特で、黄帝が昼間に符を授けるとの夢を見て盛水*1の陽*2に壇を築いて祭ると元龜*3が巨大な亀を従えて水中から出現して口中の符を置いて去り、残された符から奇門遁甲が生まれたとしている。
その符は材質不明で、皮のようで皮でなく、紬のようで紬ではないものだったらしい。多分、かなり丈夫なものだったのだろう。それには血文字で、
天乙在前太乙在後
あったとされている。後世になると亀が出てくることと奇門遁甲の背景に魔方陣があるせいで洛水に出現した洛書の亀の伝説と混同されるようになってくる。Google Earthとかで黄帝と蚩尤が戦った涿鹿の野を探していたのだけれど、河北省張家口市涿鹿県に『黄帝城文化旅游区』があることがわかった。
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ここには、黄帝、炎帝と蚩尤を祀った三祖堂や黄帝泉がある。
三祖堂 |
黄帝泉 |
それとよくわからないが九龍柱という巨大な建造物がある。
九龍柱 |
写真はチャイナネットさんから御借りした。
蚩尤は苗族と考えられているので、南方系と思われている苗族も黄帝の時代には北京よりもまだ北に進出していたことになる。また遁甲総序で暴虐無残と言われている蚩尤も現在では中国文化の源流の1つを担った存在と評価されているようだ。
太白陰経の遁甲総序が語る伝説が正しいなら、黄帝が築いた壇も『黄帝城文化旅游区』の近くにあったのだろう。