宿曜傍通暦

地球の歳差運動の影響

地球の自転軸は26,000年くらいの周期*1で歳差運動をしている。この影響は、

といった形で現れる。

先日の恠異学会での発表で、玄珠さんが補足説明として、

中国の二十八宿*2は、右枢歩天歌の天乙星*3北極星だった時代の天の赤道に最も多くの星座が並んでいた。

と言っていた。
考えてみたら、二十八宿*4は、月が1日に1つの宿を移動するという前提で決められた星座であって、星座が先にあったのではないということだ。

なので、二十八宿や二十七宿の星座をないし距星をきっちり決めて、天体計算から月の宿を算出するよりも傍通暦から計算する方が、本来の宿曜と言えるということになる。

傍通暦では以下の前提から月の宿を決める。

  1. 月は1日に1宿移動する。
  2. 満月の時に月と太陽は衝となり、その時の太陽が位置する黄道十二宮から満月の時の月の宿が決まる。

ただ、この方法はやはり荒っぽい。まず太陰太陽暦の15日は満月とは限らない。これは暦Wikiの『名月必ずしも満月ならず』を読んでもらえれば理解してもらえると思う。そして満月の時に太陽が位置するのは必ずしも黄道十二宮の中央の宿ではないということだ。

それでも傍通暦で当たるというなら傍通暦を使うのが占いというものだけど。

*1:オカルト的には25,920年

*2:“しゅう”と読むのが正しく、玄珠さんは発表でもそう読んでいた。

*3:別の星だったかもしれない。玄珠さんから訂正が入った。

*4:インドなら二十七宿

東アジア恠異学会第136回定例研究会

天乙三星についての一考察

このタイトルで『東アジア恠異学会第136回定例研究会』で研究報告をしてきた。現役の占い師の研究報告は東アジア恠異学会でも初めてだそうだ。
これの元ネタは昔のニフティの占いフォーラム東洋館*1において、2002年03月02日から投稿された玄珠*2さんの『さすらいの天乙』シリーズの半分くらいを使って、私が論文ぽくリライトしたものをベースにしている*3。リライトした役得で私も発表者として名前を連ねている*4

内容をぶっちゃけていうと、

天乙とか太乙とよばれる星があって、かっての北極星の名残だけど、それとは別に史記天官書の『天乙三星』がある。
李零は色々考察して、天乙に折り重なるイメージを明らかにした。それでも天乙の正体は突き止めきれなかった。
我々は李零と違ってちゃんと星空を見た*5。そしたら天の北極を探す指標となる三つ組みの5等星を見つけた。
これが天乙三星だ。李零がなんぼのもんやねん。

を丁寧かつ穏やかに述べたものだ。なお李零教授が術数関連の研究の泰斗なのは言っておく。

こういう知識が既にあったので、『元年春之祭』で展開される天乙・太乙についての考察はまるで食い足りなかった。

『さすらいの天乙』も半分くらいしか使ってないし、玄珠さんにはゴツイ大ネタもあるし、私は私で考えてることもあるし、少しアカデミズムの世界と関わってみようかと考えている。

*1:FFORTE

*2:佐藤壮朗

*3:いずれどこかの論文誌に投稿するつもりでいる。

*4:どこかの論文誌に投稿してみたいということで、東アジア恠異学会会長の大江先生を含む何名かの方に相談させてもらったところ大江会長から発表の御誘いがあった。

*5:実際に見たのは玄珠さんだけど。

まとまりの無い話をするのでテキトーに聞いて下さい

物体・エネルギー・情報

物体と物体が相互作用する時*1、物体が持つエネルギーの交換が発生する。これはエネルギーが物体を乗り物にしているとも言えるだろう。ではエネルギーには何が乗っているのかと考えてみた時、情報が乗っているといえそうだ。
例えば人間が発する音声は、音波が持つエネルギーに変調をかけて情報を乗せたものだ。その音声を使って電磁波に変調をかけて遠くまで飛ばして、電磁波に加えられた変調から音波に加えるべき変調を取り出して音声を再構成することもできる。この辺りを突っ込んでいくと量子情報に辿り着くかもしれない。

上記は私の数学の師匠から聞いた話だ。師匠は私に次の問題を出した。

  • では情報を乗り物としているものは何だろう。
  • また物質が乗り物としているものは存在するのだろうか?存在するなら何なのだろう。

前者への私なりの回答は『価値観』だ。
みにくいアヒルの子』の定理というものがある。これは全ての述語が同じ重みを持っているとしたとき、全ての述語の類似度が同じになるという定理だ。もう絶版だけど岩波文庫の『認識とパタン』に証明が載っている*2。つまり分類を行うためには価値観によって述語に重みをつける必要がある。

『価値観』は非常に恣意的なものであり、多数の『価値観』がパラレルに存在する。例えば海の生き物として、喰えるかどうかという価値観に基づけば、クジラは喰えるということになるし、魚類かどうかとなれば、クジラは魚類ではない。分類ですら『価値観』という恣意的なものを必要とするのは、論理の貧弱さの1つの現れだろう。そして『価値観』は公理に相当するだろう。

師匠が出した問題の後者は、今のところ生命と考えている。ならば、生命体の中で生命を維持するために、生命→物質→エネルギー→情報→価値観→生命というサイクルが構成されているのかもしれない。

*1:簡単な例としては衝突

*2:もっともその証明をここで解説するだけの能力は今の私には無い

『論理』の貧弱さ

ゲーデル不完全性定理

内部に矛盾を抱える論理のシステムが欠陥品なのは間違いないところだ。
では内部に矛盾がない論理のシステムはどうかというと、やっぱり欠陥品だ。内部に矛盾のない論理のシステムは、それ自身では真偽を判定できない命題を抱え込む。これが名前だけは有名な『ゲーデル不完全性定理*1』というヤツだ。まあ『欠陥品』というのは言い過ぎかもしれない。それ自身では真偽を判定できない命題に出会ったら公理を追加すればよい。もっとも公理を追加した論理システムにも「真偽を判定できない命題」があるわけで公理を追加しないといけない。これを繰り返すなら世界を論理だけで記述するには最低でも可算無限個の公理を必要とするだろう。

つまり世界を過不足無く記述するには論理が持つ記述能力が貧弱過ぎるということになる。
仏教でいう悟りが不立文字、つまり御釈迦さんが得た悟りが言語化できなかったというのは論理が貧弱過ぎたことの現れなんだろう。

ただ公理系Aで構成される論理と公理系Bで構成される論理が矛盾していても、人間は「それはそれ、これはこれ」とパラレルに考えることができる。なので真偽不明の命題があった所で、その命題をを公理にしてしまって、命題が真である公理系と命題が偽である公理系を作って「それはそれ、これはこれ」と割り切ってしまうことも可能だろう。

ここまで割り切れば、禅の公案にすっきりした回答ができる場合もある。
有名な禅の公案集の『無門関』の第1則である狗子仏性はこういうものだ。

趙州和尚、因に僧問う、狗子に還って仏性有りや、也無しや。
州云く、無。

趙州和尚の回答である『無』は様々に考察されている。少なくとも単純に「狗子に仏性が無い」と答えたのではないようだ。
今の割り切った私ならこう答えるだろう。

狗子に仏性があるかどうかは定理ではなく公理である。
有るといえば有る世界ができ、無いといえば無い世界ができる。
考えても仕方がない。無だ。

人間の行動は完全な自由意志に基づくか、人間の行動は完全に宿命で決定されているか、宿命はあるけれどもファジーに決まっているだけで自由意志の介入も可能だ、とかも公理だろう。

養壺のまねごとなど

茶渋の効果


茶壺(ちゃふぅ)の下半分くらいが濡れていて上は濡れてないのが分かるだろうか。この茶壺(ちゃふぅ)のセットを女友達*1からもらった時は上下とも水を撥いて濡れなかった。

それが使っている間に茶渋が染み付いた所は濡れるようになってきた。こういう茶渋による茶壺(ちゃふぅ)の風合いの変化を楽しむのを養壺(やんふぅ)というそうだ。それに気が付いてから、飲み終わった後にこんな感じで茶渋の染み込みを加速している。

養壺(やんふぅ)された時代物は珍重されているそうで、茶渋の染み込みを行う業者さんまでいるそうだ。養壺(やんふぅ)は、多分、半分だけ茶渋を付けるものでもないのだろうけど、面白いのでこのまま養壺(やんふぅ)の真似事を続けて行くつもりだ。養壺(やんふぅ)の決まり通り、しっかり茶渋が付いたらトクサで磨いてみるつもりでいる。

この茶壺(ちゃふぅ)がそうかどうかは判らないけど、養壺(やんふぅ)で育てる茶器は紫砂という荒い土で焼いたもので、元の土が荒いせいで内部に細かい隙間があって、そこに茶渋が沁み込んで行くのだそうだ。

これで思い出したのが『萩の七化け』だ。萩焼も荒い土を使って低温で素焼きして内部に隙間を残した上で、本焼きでは釉に貫入を発生させる。そのせいで茶とかが沁み込んで、使っているうちに風合いが変化するそうだ。なので手頃な萩焼の茶碗で凍頂烏龍茶を楽しんでみようと思う。

この『萩の七化け』については、『緋友禅 旗師・冬狐堂』で知った。確かこの本は、朱雀辰彦さん(id:sakashima2)がtwitterで紹介していたのに興味を惹かれて購入したものだと記憶している。メッチャ面白かったので、北森鴻の冬狐堂と蓮丈那智のシリーズは次から次へと購入して読みふけった。

萩焼の茶碗で凍頂烏龍茶を楽しんでみたら面白いかもというtweetmixiに流れて、それに玄珠さんがコメントしてくれた。もうとっくにやってて茶碗に銘まであるそうだ。もっとも玄珠さんが飲んでいるのは祁門(きーまん)紅茶で、凍頂烏龍茶とは違う。昔、アールグレイ祁門(きーまん)紅茶の量産品として開発されたと聞いたことがある。その時は「そんなことあるかい」と思ったけど、玄珠さんに祁門(きーまん)紅茶の好いヤツを御馳走になった時、「ありゃ本当だった」と納得した。

*1:そういえば中学から女気のない環境になったので、すっかり忘れていたけど、小学校の時から女友達から小物とか色々もらっていたのを思い出した。

弥勒菩薩とプラトン年

432と567

弥勒菩薩は御釈迦さんの入滅後、56億7千万年後に行う衆生済度のために兜率天で待機中ということになっている。56億年とか太陽の寿命来てるじゃんという突っ込みはあると思う。諸星大二郎の『暗黒神話』では、主人公のタケシが地球に帰還した時、出迎えたのは赤色巨星化した太陽と不死の餓鬼の他は生命が死滅した地球だった。タケシは弥勒菩薩となったのかもしれないで話は終わっている。

で昔から気になっているのが、56億7千万という数字だ。桁が大きいのは遥か彼方ということだろうけど、567という数字はどこから来たのだろう?

確証はないというか私の思いつきでしかないのだけど、この数字は1プラトン年の長さから派生的に作られたのではないのだろうか。
1プラトン年というのは、地球の歳差運動の周期だ。およそ26,000年とされているが、オカルト的には25,920年とされている。この数は、

\large{25,920 = 60 \times 432}

因数分解できる。432は西洋オカルトでは特別な数とされている。もっとも私の今の考えでは、26,000を60で割った時に430くらいになることから、432という数が出てきて、それから25,920が作られたんだろうくらいに思っている。

大いなる周期を意味する秘密の数である432があり、それの鏡像として567があるのではないだろうか。

以下余談だけど、数学者の穂刈四三二*1先生の『ベクトル-新しい数学へのアプローチ3』とかには御世話になった。中学高校時代、宿題もせずに読みふけったものだ。

なお432には更に変形できる。

\large{432 = 4 \times 108 = 4 \times (36 + 72)}

432は煩悩の数とか天罡数とか地煞数とか出て来る便利な数だ。

*1:“ほかり-しさんじ”

六壬占選将

壇ノ浦の戦いをめぐって

NHK大河ドラマの『鎌倉殿の13人』も壇ノ浦の戦いが終わった。源平の決戦をめぐってtwitterのタイムラインがにぎやかだ。話題の中心は義経と演者の菅田将暉さんだ。海中に没して見つからなかった草薙剣についての安倍泰茂卿の六壬占についての考察を書いたことのある人間としては、義経を総大将としたのは明らかに人選ミスだと思う。この戦いで義経が指示された目標は、

  1. 三種の神器の確保
  2. 安徳天皇の身柄の確保

であり、2が無理でも1は達成しなければならない目標だった。この目標が達成されていさいすれば、戦での勝敗は関係なかったはずだ。
にも関わらず義経は勝利を第1目標において、安徳天皇の入水と神器の水没という失態を犯すことになった。勾玉と鏡は幸いにも回収できたけれども、安徳天皇と共に入水した二位尼が腰にさした剣は見つからなかった。

つまり義経は戦闘指揮官としては優れていたのだけれども、鎌倉にいる頼朝の意を汲んで戦略目標に忠実な作戦を立てるべき総司令官としては不適格だったということだ。

六壬神課の占選将において、派遣軍総司令官の類神*1を太常とする。多分、太常の本地の小吉でも良いだろう。太常や小吉の象のコアは社稷*2と、今の所は考えている。土地神を祀る『社』、穀物神を祀る『稷』を合わせた国家の基盤が『社稷』だ。太常や小吉は王の代理人としての派遣軍総司令官の類神にふさわしい。義経だと勾陳か白虎という所で太常ではない。

七惑星において王は太陽であり、月は王妃を別にするなら皇太子とか宰相ということになる。月は巨蟹宮のルーラであり、黄道十二神の小吉は巨蟹宮に対応している。そういう存在としての派遣軍総司令官はやはり太常や小吉になるだろう。

余談だけど太常は太裳と書かれることもあり、裳=スカートから女性的なイメージがある。しかし平時は社稷であり戦争という状況では派遣軍総司令官となる。この辺りは西洋占星術巨蟹宮六壬の小吉でイメージに齟齬があると思っている。他にも大衝と天蝎宮とか六壬と西洋占星術でのイメージの食い違いは色々ある。六壬と西洋占星術は別物だからいいじゃんという考えでも良いとは思うけれども、イメージを擦り合わせて統一することも象を錬る一助にはなると思う。

*1:ホラリーなら“significator”。

*2:マンガ『蒼天航路』で社稷を解説する曹操がメッチャ恰好好かった。